あわてんぼうな幽霊と、自炊をがんばってる青年のお話。 リレー小説

 

あわてんぼうな幽霊と、自炊をがんばってる青年のお話。

 

うさ
うさ

「やっぱり夏はキュウリだよな」 サラダ、浅漬け、酢の物、冷やし中華のトッピング、塩昆布あえ、無限キュウリ、ナムル、マヨ炒め。 僕はいくつもレシピを思い浮かべ、徳用の袋をカゴに入れた。

 

むに
むに

いつものスーパーは何もかもが安い。しょっちゅう行くからレジのおばちゃんは顔なじみだ。 「ひとりでこんなに沢山のきゅうり、たべられるの?」と驚かれるが気にしない。 「きゅうり、好きなんですよ」 当たり障りのない返事をして買い物を済まし、出口に向かった。 (ん??)

 

うさ
うさ

連日の猛暑で、街は日が暮れてもなお蒸し暑い。覚悟を決めてスーパーを出て、うだるような暑さの中へ身を投じた、つもりだった。 「涼しい。風が通ったのかな?」 スーパーの中と同じひんやりとした空気を肌に感じ、僕は汗をかくこともなく帰宅した。 買ってきた食材を次々と冷蔵庫へしまう。

 

むに
むに

冷蔵庫を閉じてまた、違和感を感じる。ペットボトルの蓋を空けて水を飲むとじわりと汗が出てきて慌ててエアコンを付けた。 「やっぱり暑いな」 Tシャツの胸の辺りをつまんでパタパタと空気を動かしながら、本棚の隙間に置いてある小さな扉を開ける。 手を合わせてから線香をつまんで火をつけた。

 

うさ
うさ

「ただいま。夜になると、部屋の中より外のほうが涼しかったりするよね」 線香を立て、両親の名が刻まれた位牌に話しかけた。 「そろそろお盆の準備もしなきゃね。キュウリの馬を用意するから、父さんも母さんも急いで帰ってきてね」 その時、冷蔵庫からガタガタッと音が聞こえた。

 

むに
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「!?」 一瞬呼吸が止まった。 何の音かと冷蔵庫を見るが、特に何も変わったことはない。中で買ってきたものが落ちた?そんなものあったかなと考えながら冷蔵庫の扉を開けると、ゴロンときゅうりが1本落ちてきた。 「おかしいな…袋に入ってたはず…」 その時ドンと大きなものに押され後ろに倒れた

 

うさ
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「ただいま!立派な馬を用意してくれてありがとう!」 サノヤの刺繍入りエプロンをつけた男性が、僕に馬乗りになったまま機嫌よくしゃべっている。 「僕は馬なんて用意していませんけど」 男性は、一緒に床に転がっている濃い緑色の太くて立派なキュウリを指さした。 「ただのキュ…」 「馬だ!」

 

むに
むに

「まだ馬は作ってな…」 「しばらくお世話になるよ」 爽やかな笑顔なのになんで言うことは強引なんだ?!馬乗りになったまま僕の頬をさらっと撫でた。 「誰?!」 なぜ自分の家の中で知らない男に乗られてるんだかわからず、思考だけでなく頭の中もフリーズしてしまった。 「誰って、わかんないの?」

 

うさ
うさ

エプロンの胸元に刺繍されたサノヤの文字をつまんで見せながら、部屋中に響きわたる声を出した。 「らーっしゃっせぇーっ!ごー利用、ご利用、ご利用!本日朝採れ安城産キュウリがお買得!酢の物、サラダ、浅漬け、ナムル、マヨネーズ炒めも美味しいよっ!ご利用、ご利用ーっ!」 「ああ、サノヤの…」

 

むに
むに

「知ってるじゃん、いつもご利用ありがとうございます!」 サノヤの男はは立ち上がり、僕の手を引っ張り上げた。その手はひんやりと氷のようだ。慌てて冷えた手を振り払う。 「冷たっ…で、なんなの?なんでここにいるの?」 全く状況が飲み込めないまま後ずさりして冷えた手を擦る。

 

うさ
うさ

「お盆なのに、誰もキュウリの馬を用意してくれないからさ。売り場のキュウリに乗ったんだ」 沈んだ声に、僕ははっきり告げた。 「お盆は2週間後だよ」 「マジで?佐野君ったら、あわてんぼうな幽霊さんだなあ!てへぺろ!」 佐野は小さく舌を出し、小首をかしげて、コツンと自分の頭を叩いた。

 

むに
むに

「え、幽霊なの?」 「そーだよ」 こんなにはっきり幽霊が見えるはずないと思う反面、突然現れた「佐野君」の冷たさや現れ方に本当かもしれないと足元を見た。 「足あるけど」 「誰が決めたんだろね、足がないって」 ニコニコと笑いながら位牌の前まで歩いていって手を合わせる。 「おじゃまします」

 

うさ
うさ

幽霊って3Dホログラムだと思っていたけれど、違うんだな。 両親の位牌に向かって手を合わせた佐野君は、立ち上がるとキッチンへ直行した。 「お世話になるから、代償に何か作るよ」 ポケットから取り出した三角巾で髪を覆い、念入りに手を洗う。 三角巾の先が上に跳ね上がって、とても幽霊っぽい。

 

むに
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「ねぇ、お迎えに使ったきゅうりは食べないって知ってた?」 ペーパータオルで手を拭きながらキッチンを見渡している。 「知ってるよ。で、佐野君はなんで家にきたの?間違ってるんじゃない?」 幽霊を観察できるのは面白いけど、やっぱりおかしいだろこの状況。

 

うさ
うさ

佐野君は、自分が乗ってきたキュウリをすりこぎでバンバン叩く。 「ねえ、馬のキュウリは食べないって話はどうなったの?」 「考えてみたら俺たちは馬の肉だって食べるから、いいんじゃないかと。感謝して食べよう」 「無茶苦茶だなぁ。幽霊なら、そういうルールは守らなきゃいけないんじゃないの?」

 

「わからない」 佐野君は小さな声で言った。 「死んだら親戚なり、天使なり、パトラッシュなりがお迎えが来て、新入生説明会くらいあるのが普通だと思わないか?」 「うーん。先に死んだ縁者が赤い橋の向こうにいるって話は聞いたことがあるけど」 「三途の川も赤い橋も、どこにあるかわからないんだ」

 

むに
むに

「つまり、成仏してないってこと?」 「そうかもしれない」 勝手知ったる人の家といった様子で、こんどは梅干しをまな板の上で叩いている。 「聞きづらい話だけどさ、亡くなった原因は?」 「それもわからない」 だんだん声が小さくなっていく。 聞いてはいけなかったかと申し訳ない気持ちになった。

 

うさ
うさ

途方に暮れた顔に、僕は思わず言ってしまった。 「僕に、何か手伝えることがあれば言って」 佐野君は即座に顔を上げ、要望を口にした。 「ここで働かせてください!」 「は?」 「幽霊だから、食費はかかりません。料理も掃除も洗濯もできます! 何でもよく冷やします! ここで働かせてください!」

 

むに
むに

「幽霊は働かなくてもよくない?」 「でもどこにも行けないから、ここで働くしか…」 どんどん疑問が湧いてくる。 「きゅうりで移動できるんじゃないの?」 「あ、そうか」 適当に言ったことに納得されてもなぁ。 「だいたい、幽霊なのになんで姿が見えちゃってるの?」

 

うさ
うさ

「親にも友達にも見えていない。何を話しかけても、病院のベッドに横たわった俺の体を揺さぶって、俺の名前を呼んで、泣いているばかりだ。つらくて、居場所がない」 「自分の死を理由に泣かれて、意思疎通もできないのは、つらいことかもね」 僕も両親が死んだ時は号泣した。両親もつらかったのかな。

 

「店の売り場に立ってみても、やっぱり誰も気づいてくれなかった。だから、これはチャンスだと思って」 急に声が力強くなり、佐野君は胸の前で握りこぶしをしていた。 「好きな人の日常生活から自家発電まで24時間見放題!こんな美味しいサブスクのためなら、働きます!働かせてください!」

 

むに
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「そっか…家族には見えないのか、なんで僕には見えるんだろ…って…えっ!好きな人って、もしかして僕のこと?!」 佐野君はよく見ると背が高くてイケメンだ。急にそんなこと言われて冗談でも心臓が飛び跳ねる。 「そうです!名前も知らなくてごめんなさい。これを縁に働かせてください」

 

うさ
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「悪いことはしません!個人情報は守ります!霊体に鞭打って粉骨砕身働きます!採用してくれなかったら末代まで怨みます!お願いします!」 言い募られ、土下座までされて、僕は頷くしかなかった。 「わかりました。佐野君が成仏するまで、よろしくお願いします」 「やったー!ご利用、ご利用!」

 

むに
むに

これからどうしたらいいんだろう。出来ればお盆までに何とかしたい。両親が帰ってきて幽霊と一緒にいるなんて知ったら、驚いて帰ってしまうかもしれない。 「とりあえず僕としては佐野君のことをもっと聞きたい」 「え?もしかして興味を持ってくれたんですか?」 満面の笑顔で勘違いしないでくれ。

 

うさ
うさ

「佐野千尋です。職業はスーパーマーケットの副店長。いずれは両親の跡を継ぐつもり…だったけど、今は幽霊。趣味は料理と洗濯と掃除。特技は青菜を茹でること。丁寧な下ごしらえと、余熱を考慮した絶妙なタイミングの湯切りで、青菜を翡翠のように美しく、甘みと旨味を最大限引き出しますっ!」

 

むに
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「えーと、そういうのじゃなくて…」 「あ!好きになったキッカケは、野菜売り場で商品を吟味してる姿をいつも見てたからです!」 仕事柄なのかハキハキと通る声で返事が早い。ていうか、質問の意味が上手く通じてないのは僕のせいか。 「ありがとう。でも僕が聞きたいのは解決のヒントなんだよ」

 

うさ
うさ

佐野君は三角巾の先をぴょこぴょこ揺らして頷き、少し考えてから言った。 「心残りがありすぎるのかも。親を泣かせ、サノヤの跡継ぎになれず、好きな人と両思いにもなれず、イチャラブ同棲生活もできず、友達にも別れを言えずに死んだから」 身につけているサノヤのエプロンを見下ろしてため息をつく。

 

むに
むに

「心残りか。そしたらそれをひとつひとつこれから体験して、解決していけばいいのかな?」 正座して、握った拳を膝の上で固くして俯いている佐野君に聞いた。 「よくわかりませんが、きっとそうだと思います。まずはイチャラブ同棲ですね!」 さっと顔を上げた表情は、なんの遠慮もしてなさそうだ。

 

うさ
うさ

「採用試験代わりに、キュウリ縛りで夕食を作ります」 佐野君は効率よく動き回り、無駄なく材料を使って、夕食の皿を並べた。 「こちらから時計回りに、キュウリの梅和え、キュウリのきんぴら、キュウリの中華スープ、キュウリのチャーハン。真ん中のお皿はキュウリとツナの揚げ餃子でございます!」

 

むに
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「きゅうり…」 全部の皿にみどりいろが結構な割合で盛られている。 「さぁさぁ!どれも美味しいですよ」 「ありがとう」 早速スープを口にして心を落ち着けた。ずっと今後の事を考えていたけど、いいアイデアは浮かんでいない。 「どうです?俺、料理上手いでしょ?」 佐野君は僕の斜向かいに座った。

 

うさ
うさ

佐野君は何も食べないで、ただ食事する僕を見てニコニコと笑っている。 「お腹空かないの?」 「全然!喉も乾かない」 人懐っこく笑ってから、片目を瞑り、低く甘い声を出した。 「君の笑顔が、俺のご馳走だよ」 「うわ。引く」 僕は箸を置いて立ち上がろうとし、佐野君は僕を引き止めて笑った。

 

むに
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「ごめんなさい、冗談です!言ってみたかっただけです」 相変わらず笑顔は崩さない。真剣なのかふざけてるのかよくわからなくてイラついてきたけど、怒るのもなんだか悔しい。 落ち着いて心残りの中の「友達に別れを告げる」について方法を考えよう。 「で、佐野君はいくつなの?」

 

うさ
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「26。商店街の期待の新星。これからだったのに、残念です」 他人が言うべきセリフを自分で言ってかぶりを振る。 「友達も同い年?」 「3歳から102歳まで。学校の友達は年齢が近いけど」 僕はそっと提案してみた。 「もしよかったら、別れの手紙を書いてみない?気持ちが落ち着くかも」

 

佐野君は勢いよく頷いた。 「みんなへ。何の根拠もないけど、胸騒ぎがするので手紙を書きます、と」 大人っぽい字でさらさらと便箋の一行目を埋めたが、『今までありがとう』という文字を書いた途端に、号泣してしまった。 「みんなと別れたくない。死にたくなかった。なんで俺が…俺だけが!」

 

悲鳴のような言葉に、僕は彼の冷たい背中をなでた。 「ごめん。時期尚早だった。早く寝よう」 佐野君は「眠くない」と言ったけど、僕のセミダブルベッドで一緒に寝るとわかった途端、素直になった。 夏の夜なのに、佐野君から漂う冷気で、僕は心地よく眠った。 佐野君はずっと起きていたみたいだった。

 

むに
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翌朝、インターフォンの音で目が覚めた。 「はーい!」 元気よく佐野くんが玄関を開ける。 「おい、ちょっと待て」 髪を手ぐしで整えながら玄関を見ると宅配の配達員が不思議そうな顔をしてこっちを見た。 「スズキコーハクサンデスカ」 宛名を確認しながらまた、僕を見る。 「ああ、はい」

 

外国人の配達員はスマホみたいな端末を差し出してサインを求めた。箱を受け取り佐野君の顔を見ると、目尻を下げて悲しそうに笑った。 「俺はみえないんだ」 僕は項垂れて狭い玄関に立つ佐野君の肩を抱いて部屋に戻る。 「僕には見えるし、実体も感じられる」 「コーハクさんて言うんですか?」

 

「ちょっと違う。コハク、鈴木琥珀」 「やっとあなたの名前を知ることが出来た、やった!」 さっきの落ち込みは瞬時に消えてしまったようだ。小走りでテーブルの周りを「琥珀さん、鈴木琥珀」などと呟きながら回っていたが 「朝食つくります!」 と、冷蔵庫から卵を取り出し始めた。 単純なやつだ。

 

うさ
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佐野君は、ゆで玉子と玉ねぎと前の晩から漬けていたキュウリのピクルスでタルタルソースを作り、食パンに乗せて焼いてくれた。 「美味しい」 佐野君はニコニコした。 こんな笑顔の人が成仏できないって、世の中は理不尽だなと思う。 「佐野君、映画は好き?」 何か楽しいことをしたい気分だった。

 

むに
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「好きです!」 「日曜日だから混んでるかもしれないけど何か見に行こうか」 ずっと部屋にいても何も変わらないし、何か突破口が見つかるかもしれないし。 「デートだ!映画館でこっそり手を繋ぐのやってみたかった〜」 頬を両手で挟んで子どもみたいに喜んでるけど、たぶん手は繋がないと思う…

 

うさ
うさ

僕が好きな映画は、なぜか流行らない。映画館自体は人出があったけど、40席程度のシアターは、僕と佐野君しかいなかった。 「俺、フランス映画も好きだよ」 佐野君は慰めるように笑い、どさくさに紛れて僕の手の甲を叩いたけれど、その手のあまりの冷たさに、僕は思わず手を引っ込めてしまった。

 

「ごめん。冷たさにびっくりしたんだ」 「わかってる。急に触れてごめん。俺の手に体温があればいいんだけど」 寂しげに笑う顔に、僕はちょっと切なくなった。 シアター全体が暗くなり、上映が始まると、フランス映画も好きだよって言っていたくせに、佐野君は全然映画を見なかった。

 

「まじで?もう少し詳しく知りたい」、「そんなことができるの?」、「そう。俺も突然の事で」などと誰もいない隣の席に向かって話しかけている。 佐野君が誰と話しているのか。考えるとちょっと背筋が冷たくなる。 佐野君は何度も席を移動して、僕には見えない人たちと話して歩いた。

 

何人いるんだ? 僕はシアターの冷房をとても寒く感じながら、映画を見続けた。 「俺が体温を手に入れる方法がわかった!」 映画を見終わったあとの公園で、佐野君は声を弾ませた。

 

「死にかけてる生体、もしくは新鮮な死体に乗り込めばいい。相性があるから弾かれることもあるけど、相性が合えば生き返れる。死体は、死後半日以内程度なら大丈夫らしい」 僕は片耳にイヤホンをして、音声通話をしているふりで、佐野君の言葉に相づちを打った。

 

「でも、生き返ったらその人として生きていかなきゃいけないんじゃない?」 「さすが琥珀さん、頭がいい!その通りなんだ。家族や友人がいたら、その人を演じなきゃいけない。だから身寄りのない新鮮な死体を狙う!」 佐野君は力強く拳を握り締めた。

 

むに
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めちゃくちゃ張り切ってるのはわかる。でもそんな死体、どこにあるんだ? 喜んでる佐野君にそんなこと言えない。 「兄弟はいないの?」 「姉がいるけどもう結婚して地元にはいないよ」 兄弟の様子を見に行こうとか思ったけど無理そうだ。 「カレー食べに入ってもいいかな」

 

映画館のそばにあるタイカレーが好きで、ここに来ると必ず寄る。 「いいですよ!行きましょう」 まるで自分も食べられるかのように元気にお店の扉をあける佐野君。 「待って…なんで幽霊なのにドアをあけられちゃうの?」 僕は自分が開けたような素振りで店内に入った。 「あ、ほんとだ。なんでだろ」

 

うさ
うさ

佐野君は、僕の身体に触ったり、僕の目に見えたりはするけど、ほかの人の目には見えない。見えないけど、ほかの物には触れるってこと? 「生きてる時の習慣で開けちゃったけど、触らなくても通り抜ければよかった」 佐野君は扉を通り抜けようとして全身をぶつけた。 「痛い」 「無理しないで」

 

「見える、見えない。触れる、触れないの法則がよくわかんないね」 僕はスパイシーなカレーとナンを交互に食べながら、首をひねった。 佐野君は頬杖をついてニコニコしながら、呑気そうに言う。 「幽霊には時間はたっぷりあるから、ゆっくり考えるよ。映画館に来てた幽霊たちも楽しそうだったし」

 

帰り道、本当はサノヤに寄りたかったけど、佐野君が辛い思いをするかなと迷った。でも佐野君のほうから、 「玉ねぎとじゃがいもの特売日だから、寄っていこう」 と提案されて、店に入った。 佐野君は店に入るなり、僕から離れて自由に売り場を見て回って、戻ってきた。 「法則がわかったかも!」

 

佐野君はまっすぐ僕に向かって歩いてきて、トマト缶のケースにつまずいた。 「琥珀さんから離れると、通り抜けられる。物を持ち上げることはできない。でも、琥珀さんの近くにいると物に触れることができる。琥珀さん以外には見えないし、聞こえないけど」 「ややこしい。でも、わかってよかった」

 

むに
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店内を歩く佐野君を見ているうちに、ある時の佐野君の姿を思い出した。 沢山の商品が置かれて狭くなってる通路でカートが引っかかり動けなくなってるおばあさんを優しく誘導して最後まで手伝っていたこと。他のお客さんにも声をかけられ元気よく返事をしていたこと。

 

サノヤの風景になっていて、僕がきづかなかっただけだ。きっと佐野君は、何か僕に声をかけていたかもしれない。 今も目の前であれこれ野菜の話をしてるのを見て、優しいきもちになった。 「自宅はこの上なの?」 「上は仮眠くらいしかできなくて、通りの向こうに家があるよ」 「近くまで行ってみる?」

 

うさ
うさ

佐野君は塀越しに自宅の庭を覗き込んだ。僕はクチナシの木の影に立って、一緒に覗き込むことはせず大人しくしていた。つま先立ちする佐野君のシューズは靴底が広く厚く、グリップ性とクッション性が高そうだ。つま先の形が崩れていないから、安全靴なのかも。 ぼんやりそんなことを考えていた時、

 

サッシ窓が開いた。 「千尋? 千尋?」 女性の声がして、三度目に「千尋」と呼ぶ声は涙に濡れていた。 「「母さん」」 僕の耳には、佐野君のお父さんと、佐野君の声が聞こえた。でもきっとお母さんには、お父さんの声だけしか聞こえていない。 「帰ってきて、千尋」 それは胸が痛くなる声だった。

 

むに
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「俺はここにいるよ」 佐野君は門を開けて入っていった。僕は周りを確認してから塀に近づき様子をうかがう。 「母さん、母さん、ここだよ」 佐野君はお母さんが顔に当てている手を取ろうとするが、すり抜けてしまいそのまま後ろに下がった。 「母さん、ここにいるけどわからないよね」

 

佐野君のお母さんは、ふと顔を上げて笑顔を作った。 「千尋、帰ってくるわよね?私は信じてるから」 「そうだね、千尋は元気になるよ」 佐野君のお父さんは、お母さんを連れて奥へ戻って行ってしまった。 「佐野君、大丈夫?」 僕は小声で、立ち尽くす佐野君に声をかける。後ろ姿が頼りない。
うさ
うさ
「別の体になってもサノヤで働けば、自然に両親と一緒にいられる。友だちとも会える。みんなと一緒にいられる。俺、新鮮な死体を探して、持ち主に譲ってもらう!」 佐野君は大きな声で言ったのに、お父さんとお母さんにはやっぱり聞こえていなかったけど、それでも佐野君はめげていないみたいだった。

 

むに
むに

「ねぇ、ちょっと気になることがあるんだけど」 「死体なら何とか探すから大丈夫!その辺で幽霊に情報貰えると思うから」 動き出した佐野君の腕を掴んで引き止めた。 「待って。さっきお父さんとお母さんが言った言葉、覚えてる?」 佐野君は力いっぱい僕の手を振り払った。

 

「俺が帰ってくるの待ってるって!早く帰らないと!」 「落ち着いてよ、僕の話を聞いて」 走りかけた佐野君は、もう10メートルくらい先に行ってて、仕方ないという感じで振り向いた。 「戻ってきて。別の体で働いてもいいけど、よく考えよう」 「落ち着いてる時間がもったいない!早くしないと」

 

うさ
うさ

「でも、探さなきゃ!鮮度のいい死体を探さなきゃ!」 足踏みする佐野君の冷たい腕を、僕は強い力で掴んだまま、言い聞かせた。 「探すのは死体じゃない。佐野君の体だ!君はたぶん生きてる!」 佐野君は目を丸くして僕を見た。 「このあたりで三次救急をやってる病院は県立と公立の二つだけだ」

 

「病院?」 「そう。県立は遠いから、先に公立に運ばれている可能性が高い。ダメなら県立へ転院だろうけど、少なくとも公立に履歴は残る。佐野君、公立病院の診察券は持ってる?」 僕はその番号を控え、佐野君を連れてタクシーに乗った。 「佐野君は幽霊だから、僕に勝手についてきて」

 

守衛室の前でIDを見せ、ロッカールームで靴を履き替え白衣を着る。 「お医者さんなの?」 「眼科だから、今の佐野君の役に立つことはないけどね」 職員用エレベーターで医局へ行き、自分のデスクの前で診察番号を入力する。 「佐野千尋くんは、8E病棟にいる」

 

むに
むに

「…俺…ここにいる…って…」 「そう、佐野君は勘違いしてるみたいだけど。ちゃんと生きてる」 佐野君は目を左右に小さく震わせている。 「俺、俺…」 「ちょっと外に出よう」 佐野君の手を引いて階段を登っていく。行き詰まった時は階段を使って気分転換をしに行くことにしていた。

 

ドアにパスをかざして外に出ると、リハビリ用の公園がある。ベンチに座って佐野君が落ち着くのを待った。 手を組んで下を向いて震えていた佐野君が呟く。 「なんで入院してるのかわからない。なんで死んだと思ってるのかわからない」 僕は何から話そうか、佐野君がいるとわかった時から考えていた。

 

うさ
うさ

「詳しい説明は主治医から受けた方がいいけど、佐野君は仕事中に脚立から転落、頭を打って意識を失ってるらしい。長引けば植物状態と診断されるとご両親は説明を受けているみたいだ。自発呼吸はあるし、睡眠をとって目も開く。体は生きているけど、意識はないとされていて、意思疎通はできない」

 

「俺が元の体に戻ったら、意識も戻る?」 「霊的なことはわからないけど、可能性はあるかも。でも後遺症は残るかも。後遺症については、主治医の説明を聞いてもらいたいけど」 「でも帰ってきてって言われてるから、帰りたい!」 佐野君の『帰りたい』は『生きたい』に聞こえた。

 

「佐野君の主治医は僕の同期だから、ちょっと連絡してみよう」 同期はヘアキャップをかぶり、手術下衣を着て、裸足にサンダル履きでやって来た。 病棟の入口にある面談室へ行き、手短に状況を話し、佐野君を紹介する。 「俺には全然見えなくて、ごめんね」 同期は僕たちを否定せずあしらって、

 

転機から現在、考えられる予後まで一気に説明してくれた。 「受傷からちょうど1週間だ。記憶が戻るかどうかは1週間以内が目安になるから、五分五分かもしれない」 「わかりました。それでも僕は自分の体に戻ります!」 同期はナースステーションに近い部屋のドアを開けた。

 

佐野君の体は静かに寝ていて、たくさんのモニターがついていた。 「自分の体に引っ張られる感じがする」 佐野君はそう言って、僕に掴まっていた。 「戻りなよ」 「お願いがあるんだ。俺の記憶がなくなっても、俺に会いに来て。一度会ったら、俺はまた絶対に琥珀さんを好きになるから。お願い!」

 

「わかった。別に僕を好きにならなくてもいいけど。入院中は様子を見に来るし、サノヤへも行く」 佐野君は僕の腕を離し、その瞬間にするんと消えた。 「あ、動いた」 指先が持ち上がり、うめき声が聞こえた。顔をのぞき込むと、佐野君は僕と同期の目を見て、頷くようにゆっくり瞬きをした。

 

むに
むに

「御家族に知らせてくる」 同期はモニターの数値を素早く確認してから病室を出ていった。 僕は佐野君の目を見て手を握り、頷いた。 「初めまして、佐野君」 「…」何か佐野君は言葉にしたいようだったが、微かに笑顔になっただけだった。声は出しにくそうだ。 「僕は鈴木琥珀、眼科医です。

 

サノヤの常連で、佐野君に出会いました。これからもよろしく」 佐野君は瞬きと指先の動きで応えてくれたと思う。しばらくしてナースや主治医が戻ってきたから部屋を後にした。明日はまた仕事でここに来る。 「墓参りでも行っとくか」 独り言に返事する人はなく、立ち止まって周りを探した。

 

うさ
うさ

「今度は実物がご挨拶に来ました!サノヤの佐野千尋です!安全運転でゆっくりお帰りください。息子さんのことは、俺がお世話します!」 ナスで作った牛を供え、佐野君は僕の両親の位牌に元気よく手を合わせる。 「回復早すぎだろ」 佐野君がぼんやりしていたのは、目覚めてから数十分程度だった。

 

誤嚥しないように気遣うスタッフに囲まれながら、バリバリと氷を噛み砕き、水を飲み、幼少期から現在までの全ての記憶をまくし立て、 「琥珀に会いたい。琥珀は俺の恋人なんだ。俺の手料理を食べて喜んで、可愛い寝顔を見せてくれる」 と大騒ぎして、僕は墓場から病院へ呼び戻された。

 

「僕は恋人じゃない」 何度説明しても、その記憶だけは間違ったまま治らない。でも、その記憶以外どこも悪いところがなくて、佐野君は退院した。 「やっぱり自宅は落ち着くなあ。恋人との暮らしを取り戻せて幸せだなぁ」 僕の部屋は佐野君の自宅じゃないし、僕は佐野君の恋人ではないけれど、

 

僕の心のどこかに、彼の(とても強引で恣意的な)記憶違いを受け入れてもいいかも、という迷いが生じ始めている。 情に絆されたのか、まさか恋心が芽生えたのか。

 

むに
むに

結局どうして死んだと思ったのかと、僕だけに存在が感じられたのかは謎だ。佐野君曰く 「俺の望みが霊界も巻き込んで叶えられた」 などと言っている。もちろん周りの人には笑って流されているが、佐野君の家族には「俺の恋人」と紹介され納得された。

 

今はあのまま押しかけられて一緒に暮らしている。 「だって出会う運命だったから僕の姿が見えて助けることが出来たんだよ!」 佐野君は今も歌をうたいながら「旬の茄子づくし」の夕食を作っている。 そういえば初日から胃袋を掴まれたんだったなぁ……。

 

終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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